成福寺の歴史
「真言宗」は主な本山だけで18本山を数えます。
高野山真言宗は真言宗最大の宗派で、国内に3600ヶ寺。
約6000名の僧侶がいます。その教えは、高野山金剛峯寺を総本山とし、
高野山奥之院弘法大師御廟を信仰の源泉として真言密教の奥義を今に伝えています。
- 739年~1006年まで
- 1450年~1679年まで
- 1680年~1739年まで
- 1820年~2019年まで
739年(天平11年)奈良時代の名僧 行基菩薩が寶閣を建て自ら観自在菩薩像を刻んで本尊と為す。(現在の観音堂にあたる)
901年(延喜元年)菅原道真が大宰府に左遷される旅の途中、兵庫県高砂市曽根で自ら作った自分の姿の像を空高く投げたところ、加西市にある法華山一乗寺の十一面観世音菩薩像が一緒に飛んで行った。
その2体の木像が吉井の地に落ち、十一面観世音菩薩像は成福寺観音堂に安置。後年、菅原道真を祀る天神社を成福寺の鎮守とする。
その2体の木像が吉井の地に落ち、十一面観世音菩薩像は成福寺観音堂に安置。後年、菅原道真を祀る天神社を成福寺の鎮守とする。
1006年(寛弘3年)成福寺 観音堂 再建(棟札の記録記載あり)
1458年(長禄2年)成福寺 観音堂 再建(棟札の記録記載あり)
1569年(永禄12年)吉井の豪族:藤井皓玄能登守の本拠地である成福寺周辺に毛利軍が乱入。
藤井一族が悉く殺戮され、成福寺も無住となり一時荒廃する。
藤井一族が悉く殺戮され、成福寺も無住となり一時荒廃する。
1590頃(天正年間)中興開山第一世 真識和尚が住職となり再興。
1659年(万治2年)現在の観音堂を吉井山成福寺総本堂として建立。この頃から吉井の地は徳川幕府直轄領(天領)となる。
成福寺は西吉井・天神山一帯に数ヶ寺を抱える本坊寺院として栄える。
成福寺は西吉井・天神山一帯に数ヶ寺を抱える本坊寺院として栄える。
1670頃(慶安4年頃)成福寺本坊 火災で消失。
1677年(延宝5年)本坊再建。
1687年(貞享4年)備中国小田郡後月郡浅口郡三十三所観音菩薩霊場開創。第9番札所となる。
1707年(宝永4年)不動明王の厨子を内山吉次郎(日中友好の架け橋:内山完造の先祖)が寄進。(御本尊光背裏面に墨書あり)
1718年(享保3年)観音堂に三十三観世音菩薩像奉納。(奉納額に寄進者墨書あり)吉井村:藤井久左衛門 備後福山:藤井吉左衛門
1737年(元文2年)梵鐘 鋳造。(第2次世界大戦の時に供出され現存せず、現在の梵鐘は昭和27年鋳造)
1829年(文政12年)吉井四国八十八所霊場 開創。
1866年(慶応2年) 成福寺石垣完成 落慶法要。
1896年(明治29年) 成福寺正面山門(三密門) 建立。
1952年(昭和27年)梵鐘 鋳造。落慶法要。稚児行列。
1986年(昭和61年)成福寺本坊・客殿・庫裡・鐘楼堂を全て再建。落慶法要。稚児行列。
2019年(平成31年)成福寺開創1280年。 十一面観世音菩薩立像 開眼落慶法要。33年ぶりに稚児行列を行う。